資料・書籍など


鮮満旅行案内

 

 鮮満案内所という会社の旅行パンフレットです。下関を出発して奉天まで行き、大連・旅順経由で門司に帰ってくる12日間の旅行です。料金を追加すれば、哈爾浜までも行けるようです。今では行けない平壌を通っているのがいいです。

 朝の急行で京城を出発し上仁川で下車。仁川は日帰り観光となりますが、築港や月尾島を見て潮湯にも入るようです。



仁川発電報の控え

 

 大正時代に仁川から発せられた電報の控えです。100年以上前の薄い紙ですが、一部に傷みがあるもののきれいな状態でした。



有馬精米部の古い手紙

 

 古い手紙を入手しました。差出人は萬石町有馬精米部とあります。中身は文字が読めず、内容はわかりませんでした。

 有馬精米部の屋号紋は丸い形です。以前、米袋から作ったトートバッグをアップしましたが、一部残っていた屋号は角がある形。精米所の屋号も最近気になり始めました。



かつての仁川高等女学校校舎

 

 仁川にお住いの戸田さんが送ってくださいました。戸田さんによると仁川高女の卒業生から聞いた話として、鳩のフンの重さで教室の天井が落ちて、けがをした生徒がいたというエピソードがあるとのこと。

 終戦後、仁川高女は仁川女子高校となり、1998年には校舎が移転、多くの方々の思い出の学び舎はなくなってしまいました。(写真は1978年の卒業アルバムから)



時代を超えて甦った仁川の米袋

  仁川と大きな文字が入ったトートバッグを購入しました。購入した理由はバッグに使っている布が戦前の仁川の米袋だったからです。早速このバッグを製作した方にお話を聞いてみました。

 その方のお母様は台北からの引揚者で、引揚後は引揚者が生活する住宅で暮らしていたようです。米袋の布は70数年前にお祖母様が近所の人からいただいた帯に関係します。令和に入り、古帯を再利用して布に新しい道を贈りたいと帯をほどいてみたところ、芯の部分に米袋の布が使われていたといいます。それを使ってデザイン性がある素敵なトートバッグに仕上げてくれました。このバッグを手に取った時、命の再生、甦りを感じました。心から感謝いたします。

 布についてですが、米袋全体が芯に使われていたのではなく、バッグに使っている部分だけだったようです。運よく仁川の文字が入っている箇所でした。どこの精米所の米袋なのかは不明ですが、布に屋号の一部が残っています。わかる方がいらっしゃれば、教えてください。



1945年9月8日の航空写真

 

 アメリカ公文書館のHPに終戦直後の仁川の航空写真が出ていると軍事研究をしている方から連絡がありました。

 仁川港と朝鮮機械製作所を撮影したものです。この時期、引揚前の日本人はまだ仁川にいました。どういう気持ちだったのでしょう。



昭和17年最新全國鐵道地圖

 

 昭和17年といえば、祖父が仕事でよく内地に出張に行っていた時期と重なります。祖父が使っていたものと同じかどうか、わかりませんが、当時の時刻表を手に入れることができました。

 祖父が出張の際、神戸や小倉から出したハガキが徳島の家に残っています。現在は一日で行くことができますが、当時は最低一泊は必要だったことでしょう。



『敗戦日記大同江』

 

 朝鮮軽金属鎮南浦工場に勤務していた著者は平壌で終戦を迎える。ソ連が攻めてくる、日本には帰れない等の様々な情報が錯綜する中で、仲間たちと船頭を雇い、船で(鎮南浦から仁川まで)北朝鮮を脱出した。仁川には10月14日から28日の引揚列車出発まで滞在。引揚先の横浜には11月2日に到着している。この本は著者が書いた日記が基になっていて、仁川の様子や引揚について当時の状況がよくわかる内容だ。

 私の祖父や母も同じころ(同じ列車かもしれないし、一日違ってるかもしれない)仁川から引揚げている。母は仁川から釜山まで2日か3日かかったと記憶がはっきりしていないが、この本によると2日だと思われる。著者が乗った引揚船は10月31日、仙崎港に入港している。



東京芝浦電気仁川工場あてハガキと管理人のつぶやき

 

今月も何とか情報をアップすることができました。

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慟哭の道をゆく

 

 朝鮮戦争を従軍記者として見た朝鮮半島の様子を書いたものです。その中に仁川のことを記した部分があったので載せておきます。

 仁川から引き揚げた方は朝鮮戦争で破壊された仁川の様子を新聞や報道雑誌で見たときは思い出が壊されたような気持ちになったことでしょう。現在の仁川からは想像できない状況がこの本には書かれています。

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仁川よ立て、不死鳥の如く
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昭和万葉俳句前集

 

 終戦となった昭和20年8月15日を詠った俳句集がありました。その中に当時仁川在住だった方、4名の俳句が出ていました。その句を読むと、終戦の日、当時の様子が伝わってきます。

昭和万葉俳句前書集 (maruho.co.jp)



仁川の絵葉書集

 

 韓国語で書かれた仁川の絵葉書集です。右側のオレンジ色の本『仁川の昔の姿と教育機関』は以前から持っていましたが、最近左側の赤色の本『開化期の絵葉書で見る仁川の建築物』を日本で手に入れることができました。

 初めて見る絵葉書も出ており、昔の仁川を知らない私でも何だが懐かしい感じを受けます。このシリーズの本はまだ数冊出ているようなので、探して手に入れたいと思います。



小池駸一の日記

 

 1906(明治39)年10月から1941年2月ごろまで仁川の鉄道建設部に勤務していた小池駸一(しんいち)という鉄道技師が書いた日記です。小池氏は1896年から70年間ほぼ毎日日記を書いていたようで当時を知る貴重な資料となっています。

 この日記は神奈川県立公文書館で実際に読むことができます。閲覧できる人数や時間などに制限があるので、予約をしてから行ってください。

資料詳細 (pref.kanagawa.jp)



1950年9月の仁川の動画

  

 アメリカ国立公文書館のサイトで仁川の動画(音声はありません)を見つけました。9月17日に朝鮮戦争で仁川上陸を行った際のものです。日本時代を知っている人は懐かしく感じるかと思いますが、爆撃や銃撃で建物や街が被害を受けているので、悲しく感じるかもしれません。

 動画が見られない場合は、「お問い合わせ」のところから管理人に連絡をください。

INCHON, KOREAN - AFTER INVASION (archives.gov)


白馬町への手紙

 

 富平区にかつて存在した白馬町、そう呼ばれるようになったのは日本統治時代の1940年からのため、比較的短い期間に使われた地名です。そこには陸軍の造兵廠がありました。官舎と工場が同じ敷地内にあったようです。

 その白馬町宛に出された手紙を最近手に入れることができました。住所を見ると、白馬町1山手3区1号官舎とあります。白馬町1という地番がいかに広かったかということがわかりました。



『スザンナさんの架けた橋』

 

 この本の著者スザンナ・ツァヘルトさんは1908年に仁川で生まれました。父親は貿易商でドイツ人、母親は日本人です。スザンナさんの最初の記憶は仁川の家の長い廊下です。その廊下は果てしなく続くかと思われるほどと表現されています。

 第一次世界大戦でドイツが負けたことで、スザンナさんのお父さんの事業も打撃を受け、多くの財産も没収されました。スザンナさん一家は松坂町3丁目9番地にアメリカ人が建てた木造建築の新居に引っ越しました。スザンナが生まれた長い廊下の家は、図書館となったそうです。この本には1908年~19年までの仁川での生活のことも書かれています。

 余談ですが、スザンナさんの母、イシさんとスザンナさんら4人の子どもたちは関東大震災で被災された方に350円の寄付をされたことが1923年9月9日の新聞に出ていました。

 


朝鮮製鋼所について

  

 万石町33番地にあった朝鮮製鋼所に関する資料を少し手にすることができました。

 住所から当時どこにあったのかは想像できますが、それ以外は情報が少なくわからないことが多いです。写真があれば、製鋼所の規模や様子を知ることができるのですが。

 ご存知の方がいらっしゃれば、いろいろと教えてください。



朝鮮視察報告(昭和16年森川史料)

 

 国立公文書館アジア歴史資料センターのHPに昭和16年5月の陸軍の報告書が出ております。

 報告書には朝鮮半島のいくつかの都市の報告が出ていますが、仁川の箇所だけをPDFファイルにしてあります。

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朝鮮視察報告(仁川編)
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韓国仁川写真帖

 

 学習院大学東洋文化研究所のHPに「韓国仁川写真帖」が出ております。初めて見た写真もありました。とても貴重な資料ですので、どうぞご覧になってください。下のURLをクリックするとそのページに行けます。

 https://www.gakushuin.ac.jp/univ/rioc/vm/c03_yuuhou/c0307_incheon.html


朝鮮機械製作所社宅の部屋番号

 

 徳島の家に残っている手紙の中に一通だけ、祖父母が住んでいた社宅の部屋番号が書かれたものがありました。以前からその住所がどこなのか気になっていましたが、やっと解明できました。

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朝鮮機械製作所社宅の部屋番号
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『連絡船』朝鮮引揚者消息雑誌

 

 仁川だけではなく朝鮮各地から引揚げた方に関するもので、昭和23年12月に発行されました。引揚後、友人やご近所を探している方々が多かったようですね。その想いがあふれ出ています。

 出処は下にリンクしてある東京経済大学のページです。そこからダウンロードできますので、興味ある方は是非お読みください。

https://repository.tku.ac.jp/dspace/handle/11150/3275

 このHPからもダウンロードできるようにしたいのですが、ファイルの容量が大きすぎて、載せることができませんでした。上にある東京経済大学のページからダウンロードできない場合は、このHPの「お問い合わせ」から管理人にメールをください。


『おんどるの夢』

 

 昭和39年に発刊された佐藤米次郎さんの私刊本小冊子です。限定百部のものでしたが、運よく手に入れることができました。とてもきれいな状態で残っていました。



『あれから七十三年』

 

 旧満洲、朝鮮半島、台湾から引揚げた15人の体験記です。仁川からは終戦直後に生まれた方が家族とともに引揚げたお話が出ております。当然引揚げ時の記憶はないので、家族から聞いた話をもとに書いてあります。

 この方のご家族は朱安で三万坪の土地で農園を経営し、父親は貿易商でもあったとのこと。とても裕福な生活をされていたそうですが、終戦によりすべてを失っています。昭和21年2月4日に仁川を発ち釜山港から仙崎に引揚げられたそうです。


昭和20年の列車時刻表

 

「釜山でお昼を」様から画像使用の許可をいただき、載せています。

http://busan.chu.jp/pic/korea/rail/index.html

 

京城仁川間は往復それぞれ一日10本列車が出ていたようで、停車駅は仁川ー上仁川ー富平ー永登浦ー龍山ー京城です。



『白木蓮記』

 

 龍岡小学校(国民学校)で教員をされていた故八波正武先生の遺稿集です。

 八波先生は引揚げ後も福岡県の小学校で教員としてご活躍されました。また福岡県の多くの小学校で校歌の作詞や作曲もされております。仁川の龍岡小学校の校歌を作詞作曲したのも八波正武先生です。八波先生は絵画も多く残されていて、芸術的才能を持った方だったようです。水彩画が好きで暇を見つけては絵筆をとり、どこへ出かけるにも愛用のカバンにはいつもスケッチブックが入っていたと書かれています。

 奥様の八波八代子さんも龍岡小学校で教員をされておりました。


『まんが宮城道雄の少年時代』

 

 吉原勇さんの「仁川の70年」二人の音楽家にも書かれてある宮城道雄の少年時代が漫画本として出版されています。仁川が出てくる場面は16ページですが、絵で描かれているので当時の情景が分かりやすいです。

 お求めは宮城道雄オフィシャルサイトまで。https://www.miyagikai.gr.jp/book


仁川にあった学校の教職員名簿

 

 

仁川にあった学校の昭和17年7月1日の教職員名簿です。1頁目の終わりから2頁目に仁川中学校、仁川高等女学校、3頁目に仁川商業学校、仁川職業学校、仁川商業補習学校。4頁目に仁川旭国民学校、仁川龍岡国民学校、仁川昭和西国民学校。5頁目は仁川昌栄国民学校、仁川松林国民学校、仁川朱安国民学校、仁川大和国民学校、仁川鶴翼国民学校、仁川第二松林国民学校、仁川元町国民学校、仁川大正国民学校、仁川萬壽国民学校、仁川井上国民学校、仁川昭和東国民学校、6頁目は仁川論峴国民学校です。

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昭和17年仁川学校教職員名簿
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大正元年のハガキ

 

 内容は外国語で書かれていますが、住所は漢字で仁川杻峴(ちゅうげん)、あて先は天主堂となっています。

 杻峴はハングルで書くと축현(チュッキョン)です。杻峴・축현は元々地名でした。現在は杻峴小学校という名前で使われていますが、小学校が移転し、元々杻峴とよばれていた場所からは随分離れたところにあります。



宮内大臣からの招待状

 

 昭和3年11月1日付、宮内大臣から朝鮮総督府後庭で行われる催事への招待状です。


『神風特攻隊「ゼロ号」の男 海軍中尉久納好孚の生涯』

 

 特攻隊第一号としてよく知られている人物は昭和19(1944)年10月25日に出撃した神風(しんぷう)特別攻撃隊敷島隊の関行男海軍中佐です。この本は関行男中佐よりも4日前の10月21日に出撃し、未帰還となった大和隊の久納好孚(くのうこうふ)海軍中尉の生涯を書いたもので、題名にある「ゼロ号」というのは一号の前という意味です。

 Wikipediaでは久納好孚中尉は大正10(1921)年1月15日に「愛知県で生まれる」と書いてありますが、実際は好孚の父の察冏(さっけい)が建立した仁川府寺町の明照寺で生まれています。


朝鮮機械製作所係長の手紙

 

 差出人は工務係長の松村誠一氏。あて先は京城陸軍燃料本部石井少尉。昭和20年7月17日に臨時召集令状が来て、竜山222部隊に入隊することになったので、報告すべきことや引継のため早急に来社いただいたいというの内容。作戦名であろうか㋧という言葉があった。

 陸軍の潜水艦「まるゆ(〇にゆ)」はわたしも知っているのですが、㋧については何のことかわかりません。もしわかる方がいらっしゃれば、ご連絡ください。よろしくお願いいたします。



『無窮花(むくげ)咲く鶏林の国』

 

 仁川中学校の2期生だった桐原豊氏が引揚げ後、初めて韓国仁川を訪れた昭和54年から昭和62年の訪問までの記録を書いたものである。仁川にも何度も立ち寄っておられ、その時の仁川の街の様子を昔の仁川の思い出とともに書いている。仁川では仁川時代の同級生と再会した話、龍岡小学校や仁川中学校を訪問して、校長先生と面会した話なども出ている。

 いっしょに訪韓したメンバーは仁川出身の方々で、仁川会の名簿に出ている方々が多かった。今でもお会いできるなら直接会って、お話を聞いてみたい。


仁川のお土産

 

 月尾島と突堤が描かれたお盆です。木製で写真のように魚の形をしています。当時の仁川のお土産ではないでしょうか。

 祖父の家に残っていたものではなく、ネットオークションで手に入れたのものです。



『祖父が暮らした仁川(ジンセン)』

 

 管理人の祖父が暮らした仁川を残っていた手紙や写真から調べて書いた小冊子です。少し在庫があります。無料で差し上げますので興味がある方はお問い合わせのところからご連絡ください。B6サイズで62ページ、表紙以外は白黒です。

 祖父は昭和13年から終戦まで朝鮮機械製作所に勤務し、花水町、万石町にあった社宅に住んでおりました。その生活を中心に書いたものですが、管理人は当時の仁川を知りません。内容に事実と違うことも若干書かれているかもしれませんが、その点ご了承ください。

 

 


残っていた慰問袋

 

 お父様が終戦前仁川で暮らされていたという方から連絡をいただき、お祖父様が持っていた物に慰問袋があるとのことで、画像をいただきました。慰問袋に書かれている平岡謙一さんとお父様は同じクラスで、平岡さんは級長をされていたそうです。

 なぜ、この慰問袋をお祖父様が持っていたのかわからないそうですが、お祖父様は仁川にいるときに出征し、戦地から復員。お父様は親戚の方と引揚げられ、お祖父様とは日本で再会されたそうです。



「雪の仁川神社」

 

1943年第18回国展入選の故佐藤米次郎画伯「雪の仁川神社」。時代を越えて見てみたい風景です。


仁川の鳥瞰図

 

朝鮮博覧会仁川協賛会が1929年に出版した『仁川』の中にある「仁川府を中心とせる名所交通圖繪」

画像は「京都府立総合資料館 京の記憶アーカイブ から」http://www.archives.kyoto.jp/websearchpe/detail/1422595/1/3


西公園の絵葉書

 

故佐藤米次郎画伯の「仁川郷土館から見た仁川閣」が描かれる前の西公園の絵葉書です。奥に見えるのは1905年に完成したイギリス人のジョンストン氏の別荘です。1936年に仁川閣という名前の料亭になり、戦後は米軍将校の寄宿舎となったそうです。(参考 http://www.seoulnavi.com/special/5037469

残念ながら仁川閣は仁川上陸作戦の時に破壊され、現在は残っていません。西公園は現在の自由公園です。


「仁川郷土館から見た仁川閣」

 

1940年から1946年まで仁川に住んでいらした故佐藤米次郎画伯の版画作品です。ご家族の了承をいただき、アップさせていただきました


  龍岡小学校の校歌と楽譜

 

  一 暁の鐘は 鳴りわたりたる いざ我が友よ

    我等また この腕(かいな) 強き腕に 希望をいだき 

    漕ぎ出さん 理想を目指して 

    ただこれ誠もて 正しく進まなむ

 

  二 緑も深き 四季のその下(か)の 我が学び舎は

    そのかみの戦(たたかい)に 勲(いさを)たてたる 千代田のマスト 

    吹きくる潮風に ひらめくは 

    竜岡我等の 意気にも似たるなり 


終戦二日前、朝鮮である異変が起きていた。小さな目と耳が捉えた貴重な記録

「何で日の丸を降ろすんだろう」――昭和二十年八月十三日、朝鮮の港町・仁川に住む七歳の著者は不思議な光景を目にする。それは、当たり前の生活と秩序が崩れ去る前触れだった。玉音放送の後、優しかった現地の青年は豹変して「この家の物はオレのもの」と凄んだ。隣組では、上陸した米兵に「慰安婦」を差し出す相談が持ち上がった。仁川神社の宮司は行方不明に……小さな目と耳が捉えていた、敗戦下の貴重な記録。


1945年韓国仁川から引揚げ後、ばらばらになったクラスメートが激動の年月をさまよった末に再会し奇跡の同窓会を果たしたドキュメント

 

龍岡小学校の26回卒業生で終戦時には仁川商業の1年生だった井本洋氏によって書かれた一冊。


「仁川の70年」壬午軍乱と済物浦条約(下)に出てくる花房町という地名。たしか手紙の中で目にしたと思い、探していたら出てきました。祖父が仁川から出した書留郵便に「仁川花房町」のスタンプが押されていました。祖父が松坂町に住んでいたときに出した手紙ですので、昭和13年頃のものです。


仁川に関するものではありませんが、以前わたしが全羅北道群山市に住んでいたときに日本人街を調査している方にお願いし、いただいた戦前の群山日本人街の地図です。

この地図のサイズは広げた新聞紙2枚分あるので、スキャンやコピーすることもできず、写真に撮りました。いただいてから10年以上経っていることや、わたしが何度も広げてみたこともあり、見づらくなっている箇所もあります。

以前群山で暮らしていたお知り合いの方や群山の日本人街を調査している方がいらっしゃれば、ご連絡してあげてください。


朝鮮機械製作所から送られてきた保険の案内。祖父の家に残っていました。

祖父は仁川の生活で何度か引越しをしています。朝鮮機械製作所が設立された当初はまだ社宅整備が追いつかず、松坂町二丁目六番地に住んでいました。その後、花水町八の社宅に引越し、そして万石町九番地の社宅に引越しをしています。また母の記憶から万石町の中でも一度引越しをしていることがわかりました。

仁川市花水洞に現在も残る旧朝鮮機械製作所社宅

横の写真は2014年に祖父の足跡を辿って仁川の花水洞を歩いている時、古い日本家屋があったので写したものです。先日ネットで朝鮮機械製作所を検索していると、あるブログに行きつきました。そこには旧朝鮮機械製作所社宅とあり、同じ場所の写真が出ていました。わたしが以前見たところは祖父が暮らした場所だったのかもしれません。また驚いたことにそのブログにはこのHPを見て祖父のことも書いてくれていたのです。

http://liumeiuru.hacca.jp/163-2/