当時の写真

貴重な写真なのでコピー流出防止のため画像に文字透かしを入れているものもあります。

 

みなさまも当時の写真をお持ちの方はご連絡いただければうれしいです。公開する写真は許可をいただけたものだけで、ご希望により文字透かしを入れることも可能なので、ご安心ください。


月尾島での宴会

 

 国際通運仁川支店の宴会の1コマです。日付は昭和6年4月29日、当時は天長節といわれた祝日でした。

 オークションサイトで手に入れましたが、結構な高値でした。もし、当時の写真を持っている方がいらっしゃれば、ご連絡ください。写真本体ではなく、データだけでも送っていただければうれしいです。



祖父の友人、おおぐしさん

 

 母から覚えている祖父の友人、おおぐしさん。祖父が仁川で写した写真は何枚かあるが、その中で母が指さした写真、この人はおおぐしさんじゃないかな?

 おおぐしさん、漢字で大串なのか大櫛なのかは分からない。ただ、朝鮮機械製作所で人事課長をしていたという話は聞いたことがあるようだ。横の車の前の写真、右側がおおぐしさん、左側が祖父である。もう一枚の写真、上段左端が祖父、右端がおおぐしさん。おおぐしさんに見覚えがある方は、ご連絡ください。



遠くに見える仁川港

 

 この写真は1945年8月25日に米軍が空から撮ったものです。これまでにネット上に出ている空からの写真は9月8日撮影のものがありましたが、それよりも少し前のものです。

 8月25日に撮られた写真はもっとあるのですが、これしか手に入れられませんでした。



新しく見つけたまるゆの写真

 

 戦時中、仁川でも製造されていた陸軍の潜航輸送艇、通称まるゆ。そのまるゆの新しい写真を見つけました。

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新しく見つけたまるゆの写真
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仁川の桜

 

 祖父の写真です。祖父の容姿と和服女性から見て、祖父が仁川に行く前、東京で撮影したものと思っておりました。しかし、下の朝鮮機械製作所内の鳥居前の写真にも写っている人物がいることから仁川で撮られたものだとわかりました。

 『降ろされた日の丸』の著者、吉原勇さんにこの写真を見てもらったところ西公園(今の自由公園)ではないかと、いうことでした。撮影時期は祖父の容姿から昭和13年の4月だと思います。

 左端の学生服を着ている人は新入社員だったのかもしれません。下の写真では右下に写っている人です。真ん中の男性は下の写真では上から2番目に写っています。右から2番目の女性は下の写真の左端の人によく似ているように思えます。



朝鮮機械製作所内の鳥居

 

 家にあった祖父の写真です。国民服を着ているところから見ると、昭和17年ごろの写真だと思います。右後ろは朝鮮機械製作所の工場のようなので、製作所敷地内に鳥居があったと考えています。

 鳥居は笠木(かさぎ:鳥居上部の横材)に反増(そりまし:笠木の両端の反り上がり)がある形です。鳥居の向こうには祠(ほこら)のようなものが見えます。


仁川の写真絵はがき

 

 仁川の写真絵はがきが見られるサイトの紹介です。朝鮮写真絵はがきデータベースというサイトです。

 http://kutsukake.nichibun.ac.jp/CHO/index.html?word=仁川

 サイトを開くとたくさんの写真絵はがきが出てきます。見たい写真絵はがきをクリックしてください。そうすると写真が少し大きくなります。そして、詳細ページと書いてある部分をクリックすると、写真絵はがきの画像が出てきます。それをまたクリックするとさらに大きな画像になり、とても見やすくなります。

 検索ワードには仁川と記入してありますが、ここに他の地名を書きこめば、その地域の写真絵はがきが見られます。


仁川閣をバックに仁川高女の生徒

 

隠塚明様が本HPをご覧になり、送ってくださった写真です。

叔母様が写っている写真で、叔母様が大切にアルバムに残してくれていたようです。正確な撮影時期はわからないそうですが、昭和5年前後ではないかということです。


昭和10年ごろ龍岡小学校の校庭で

 

龍岡小学校の校庭にある滑り台の前で写した写真です。写っている児童は3年生だということです。一部の方はお名前がわかりますので、ご連絡ください。


杻峴(ちゅうげん)小学校第1回卒業生

 

大正8年(1919年)開校の杻峴小学校(のちの龍岡小学校、国民学校)の第1回卒業生の写真です。杻峴小学校ができる前まではみんな寺町小学校に通っていました。写真は龍岡小学校同窓会通信に出ていたものです。


龍岡小学校第19回卒業生(昭和13年)

 

 この写真は6年生になった年度当初の学級写真なのか、卒業時に撮られたものかは不明です。HPには出していませんが、写真には名列表があり、一人一人のお名前がわかります。ご家族だと思われる方のご連絡お待ちしております。 

 龍岡小学校同窓会通信の記事には杻峴(ちゅうげん)小学校から龍岡小学校に名称が変わったのは昭和10、11年頃ではないかとありました。この写真の児童たちが在学していた時期です。



木本寿直様から仁川旭国民学校での写真とお手紙が届きました。

 

  私は仁川で生まれ育った者として、「仁川を想う会」のサイトに関心を持って目を通しております。その中の『仁川の70年』は吉原 勇氏が緻密な調査と資料に基づいて書いておられるので、仁川の歴史を改めて認識しながら読んでおります。

  『仁川の70年③』に小学校開校の記事があります。その中に旭国民学校のことがその歴史を踏まえて書かれています。私はその筆者、吉原 勇氏と同じく旭国民学校で彼と同学年でした。終戦の時は1年生で、1学期しか学校に行っていません。クラスに50人くらいいました。クラスの名簿など無いので、連絡等取りようもありません。同級生、同学年といっても現在は皆78歳であります。心当たりのある人は、「仁川を想う会」の方に連絡を入れていただきたいと思います。私の入学の時の写真を添えておきます。昭和20年(1945年)4月当時の写真です。これを見て自分やお母さんの姿を見つけられた方もおられると思います。前列左端のモンペをはいた若い女性が担任の今井先生です。熊本県の人です。

もう一つ見てもらいたい物があります。玄関の左側に大きな木があります。その木の根元に砲弾が三つあります。この砲弾は日露戦争時、仁川沖海戦で日本海軍とロシア海軍が戦った時の砲弾で、ロシア軍艦の物と言われております。そのくらいのことしか分かりません。この学校にある由来は分かりません。10年くらい前にこの学校を訪ねた時砲弾はありましたが、この物とは違い、大きさも大分小さいものでした。ここの校長は朝鮮戦争の時のものと思っていたと言っておりました。それでこの写真を見せて、1945年当時にはすでにあって、日露戦争当時の物であることを伝えると、校長は初めて知ったと言っておりました。

  どなたかこの砲弾の由来を知っている人がおられましたら、「仁川を想う会」まで記事を寄せていただけませんか。(木本寿直)


何かの行事での写真(撮影年月不明)

 

 家に残っていた写真です。祖父が仁川から送った写真だと思います。ただ、いつの何の写真なのかはわかりません。女装をしている男性もいるし、写真に写っている人の多くは仮装をしているようにも見えます。

 天長節か明治節の記念式典とかではないかという見方をしてくださった方もいらっしゃいましたが、祖父が勤めていた朝鮮機械製作所の行事で撮られたのではというのが有力です。


昭和一桁頃に撮られたと思われる上仁川駅構内での写真です。

「釜山でお昼を」のサイトからいただきました。

http://nekonote.jp/pusan.html

 当時、駅構内では写真撮影が禁止されていたそうで貴重な写真です。総督府交通局幹部の方が個人的に撮影したものをご子孫からいただいたそうです。注目すべきは上仁川のハングルが「상인천 」ではなく「 샹인쳔」と表記されていることです。



宮本匡さんが所有していた写真を載せさせていただきました。昭和20年に龍岡国民学校の校庭で撮影された写真だそうです。

中央の鉄棒前にいる男性教員が召集されるということで、6年生みんなが校庭に出て記念撮影したとお話に聞きました。

この写真については、他のブログでも詳しく知ることができます。

http://santaku-yamaguchi.cocolog-nifty.com/yama/2007/01/post.html


祖父の家に残っていた写真です。


祖父の一家は万石町9番地にある朝鮮機械製作所の社宅に住んでいました。この写真は社宅の庭で写したもので、前にあるのは防空壕の入り口です。

 

この写真は朝鮮機械製作所の同僚で大石さんの送別会で写したものです。写真の裏に場所は松竹楼と書かれてありました。

ソウルの京城ホテル前での写真です。右側の方は朝鮮機械製作所で人事課長だった大串さんではないかと思われます。