掲示板

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コメント: 39
  • #39

    管理人 (水曜日, 01 12月 2021 02:52)

    木本様
     ご無沙汰しております。お元気でしょうか。掲示板へのコメントありがとうございます。
     日本人が住んでいた時代を知る方に説明を付け加えていただき、この動画をより身近に感じることができました。仁川は相当の被害を受けたのも関わらず、現在でも日本時代の建築物が残っていることを思うと、メッセージのようなものを感じます。
     当時の建物は現在、無用のものとなっているかもしれませんが、当時を知る貴重なものです。歴史的な意味を含めてできるだけ多くのものを残していただきたいと思っております。

  • #38

    木本寿直 (火曜日, 30 11月 2021 17:47)

    アメリカ国立公文書館の朝鮮戦争時の仁川上陸の動画を見ました。仁川を知っている者にとってはこれは貴重な動画です。はじめマッカーサー元帥が出てきます。ここは地形から見て月尾島の上陸地点ですね。ジープで仁川の市街地へ向かっている所でしょう。現自由公園から見下ろした仁川港や倉庫群や住宅地。圧巻は砲撃を受けた教会のような建物、これは仁川閣です。日本人が使っていた接待所の様な所です。朝鮮戦争の時、北朝鮮軍がここを占拠して、上から機関銃で上陸してくる米軍をバリバリ撃ってきたのです。それで米軍が船から艦砲射撃をしたのですが、その砲弾が当たった跡です。
    今はここに韓国と米国の友好記念の記念館がたっています。
    米軍は仁川に上陸する時、月尾島や松島に上陸したのですが、この動画に映っているのは月尾島上陸の米兵で、仁川と月尾島を結ぶ長い突堤道を歩いている姿からそれがわかっります。
    この動画を見ると仁川は相当の激戦地だったのですね。昔日本人が築いた財産はほとんど灰燼に帰したのですね。
    貴重な動画を見させていただきました。
    木本(83歳)

  • #37

    管理人 (金曜日, 09 4月 2021 08:03)

    yij 様
    コメントありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。

  • #36

    yiJ (金曜日, 09 4月 2021 00:23)

    仁川に関してとても勉強になりました。ありがとうございます。

  • #35

    管理人 (木曜日, 06 6月 2019 08:12)

    中谷要 様
    掲示板への書き込みありがとうございます。仲町にお住まいだったとのこと。この辺りは現在でも日本時代の建物が残っております。外は韓国風に変えられていますが、裏から見ると日本の建物であることがわかります。
    ご友人のお名前も思い出せないとありましたが、ご友人の方は中谷さんのことを覚えていらっしゃるかもしれないですね。わたしへのメールはこの上のメニューにある「お問い合わせ」で送っていただくと、わたしのところに連絡が入ります。わたしも何かわかれば、ご連絡差し上げます。

  • #34

    中谷要 (水曜日, 05 6月 2019 23:36)

    私は父の仕事のために龍岡小学校1年生の3学期の途中確か2月10日に編入したと思います、住所は仁川閣のすぐ傍 仁川府仲町だったと思います、二階から仁川港が見下ろされる仁川府庁が近くにあったように思います、偶然「仁川を想う会」を見つけ懐かしく思い起こしています。
     昭和6年生まれで間もなく90歳、先生のお名前も友人の名前も思い出せず寂しいことですがご健在の方がいらっしゃったら嬉しい極みです。

  • #33

    やっさん (火曜日, 02 4月 2019 19:54)

    管理人様、教えてくださいに載せていただきありがとうございます!

  • #32

    やっさん (月曜日, 25 3月 2019 20:32)

    木本様
    レスありがとうございます。
    古建築散歩のページですね、あたしもずっと前からこっそりファンでみていました。でも教えて頂きありがとうございます(*^^*)
    古建築散歩のサイトを読み始めた頃はは半信半疑というかタダグミとか呼ばれてたとも書いてもありもしかしたら違うのかもなくらいの感じで読んでいましたが
    最近更に最近の豊平の地図(山谷小学校の近くと管理人様から聞いて検索しました)に白馬場という未開通の駅が出来ていたのでもう間違いないだろうなと確信を得たところです♪
    お兄さまが豊平に関わりがあるのですね!
    気にかけて下さり本当にありがとうございます。嬉しかったです�

  • #31

    木本寿直 (日曜日, 24 3月 2019 16:53)

    やっさん様
    白馬町について井上様から参考資料を受け取られているかと思いますが、私からも参考になればと思い、資料を送ります。下方のURLを見てください。白馬町の昔と今の写真もあります。もし井上様の資料とダブっていればあしからず。
    私の兄(現在も元気)が中学生の時、毎日学徒動員で富平にある三菱の兵器工場に行っていました。富平のあたりのことをよく話していました。

    http://liumeiuru.hacca.jp/2013/05/57/

  • #30

    やっさん (土曜日, 23 3月 2019 19:39)

    木本様
    コメントありがとうございますm(*_ _)m
    ここの管理人様のおかげで場所の特定やなんとなくの地図もわかって参りました。でもなかなか文献などに陸軍造兵廠社宅とは載ってなくてなかなか全部把握とは行きませんね。。
    白馬町とはどんな場所だったのか、当時と今を写真などは見つかっていません。特に当時の写真はすくないですよね。叔母も2、3枚しか持っていませんでした。そんなに仁川市街よりは有名ではなさそうなのはわかってきましたが。
    気にかけて下さりありがとうございます。
    なにか当時の白馬町の写真などはどなたかお持ちではないでしょうか。叔母へのプレゼントにしたいと思っております。

  • #29

    木本寿直 (土曜日, 23 3月 2019 15:56)

    やっさん 様
    白馬町について何か手掛かりをつかみましたか。
    白馬町についてはよくわかります。当時兵器工場があった富平というところにありました。今もあります。

  • #28

    やっさん (月曜日, 18 3月 2019 12:31)

    はじめまして。
    私の祖父母が家族で仁川に住んでいました。叔母はあの頃が1番よかったと言っています。仁川の白馬町という所をご存じですか?どんなに調べても出てこず。。祖父は陸軍の工場に務めていたそうです。全く仁川にいた頃の話を聞かないまま二人とも亡くなり子供時代にいた叔父叔母もあまり覚えていないとの事で詳しい情報がありません。
    よかったら白馬町というところについて教えていただきたいです。よろしくお願いしますm(*_ _)m

  • #27

    이성진 (月曜日, 09 7月 2018 20:09)

    http://www.incheonnews.com/news/articleView.html?idxno=105948

    HOME 이성진 교사의 잊혀진 인천이야기 [연재1] 조선기계제작소

    손경옥 기자승인 2018.07.09

    인천에 진출한 일본기업 중 조선기계제작소는 매우 특이한 활동을 한 기업으로 손꼽힌다. 어쨌든 해군이 아닌 육군 제 7기술연구소가 히라가나 ‘ゆ’를 ○로 둘러싼 형태인 암호명 ‘마루유’로 비밀리 개발한 잠수함, 삼식잠수운송정을 건조하는 특별한 업무를 시행하였다. 조선기계제작소는 1937년 6월 설립되어 등기상으로 본사는 경성에 두고, 공장은 인천부 만석정에 두었다. 당시 조선에 다수 존재하는 광산개발 붐을 타고 광산채굴 기계와 토목기계를 생산하는 것이 목적이었다. 모(親)회사는 도쿄도(東京都) 죠토구(城東区區, 現 고토구 江東区區) 오시마(大島)에 소재한 요코야마공업소(橫山工業所-보일러, 분쇄기 특허 기술을 보유하고 있는 회사였다.)로 되어 있지만, 이것은 대리회사(가짜회사)였을 가능성이 있다. 이 회사가 어떻게 경영을 하게 되었는가는 상세하게 후술하도록 한다.

    당시 광산 개발 붐이 조선 전체를 뒤흔들고 있었으며, 미쓰이(三井)계열의 산세이광업(三成鑛業), 니혼광업(日本鑛業), 미스비시금속광산(三菱金屬鑛山) 등이 금, 은 , 구리, 아연 등 희소금속 광산 개발에 경쟁적으로 개발하고 있었다. 또한 조선에 국한하지 않고 만주(중국 동북부)까지 일본 개척단이 들어가 토목공사가 한창 진행 중이었다.

    그러한 개발 붐에 편승해서 조선기계제작소는 광산채굴기계 매출이 호조를 보였다. 조선기계제작소를 설립한 지 1년도 안되어 당초 자본금 50만엔(한화 약 500만원)에서 300만엔(한화 약 3,000만원)으로 5배 증자하였고, 2년 후에는 배액 증자를 하였다. 창업 직후부터 수익을 내서 2년째부터는 6% 배당도 하였다.

    「인천을 사랑하는 모임」 홈페이지 관리인 이노우에 고이치(井上浩一)의 외할아버지, 모리모토 히로시는 도쿄시청(東京市役所)¹를 사직하고 1938년 3월 조선기계제작소에 입사하였다. 서기(사무원)로 인천으로 부임하였다. 이노우에는 “할아버지가 왜 인천에 갔는지 경위를 알 수 없다. 아키타 키요시(秋田淸)대의사(代議士) 집에서 서생으로 있었던 적도 있기에 그 관계로 인천에 오지 않았나?” 추정하고 있다.


    ▲ [출처: https://jinsendayori.jimdo.com/]
    ¹1889년부터 1943년 사이에 존재했던 시. 현재는 도쿄도.

    조선기계제작소 초대 사장 모리 테루히토(森輝)이다. 그는 다름 아닌 쇼와전공(昭和電工) 창시자 모리 노부테루(森聶昶)의 친동생이다. 쇼와전공(昭和電工)의 전신 쇼와광업(昭和鑛業) 등 여러 회사의 이사를 겸임하면서 인천으로 와서 조선기계제작소를 관리하고 있었다. 게다가 유력지(이니로쿠 신보(二六新報)) 경영도 맡고 있었던 듯하다. 모리모토 히로시(森本寬)는 일본 주오대학 법학과(日本 中央大學 法學科) 재학 중 야간에는 이니로꾸 신보(二六新報)에서 일하였다고 한다. 이때 일하는 태도를 눈여겨 받던 모리 테루히토(森輝)가 조선기계제작소로 이끈 것이 아닐까 필자는 추측하고 있다. 모리 테루히토(森輝)는 일본 유력지 이니로꾸신보(二六新報) 경영에도 참여하였다.


    ▲ 조선기계제작소 초대 사장 모리 테루히토(森輝) [출처: https://ja.wikipedia.org/wiki]
    모리모토 히로시(森本寬)가 부모에게 보낸 편지에 따르면 당시 인천은 일본 대기업의 진출로일본인 직원의 주택난이 극심하였다고 하였다. 조선기계제작소 직원 모리모토 히로시(森本寬)는 송판정(현 송월동)에서 화수리로, 화수리에서 만석정으로 2-3번 이사를 했다고 한다. 간부 사원들에게 걸맞는 사택을 제공해 주기 위한 회사 측의 노력의 결과인 것이다.²

    ²동아일보 1935년 8월 25일자에 이로 인한 화수정 주민들은 철거령에 의한 피해를 호소하는 사태가 벌어졌다. ‘인천 조선기계제작소 화수정 백여호에 철거령 주민 등은 이전비 증액을 요구 주목되는 금후 귀결‘

    모리모토 히로시(森本寬)의 편지에는 1939년(昭和 14年) 조선기계제작소 직원은 1000명이 넘었다고 한다. 모리모토가 1942년 노무과장으로 승진 직후에 대규모 직원 채용을 실시하였다. 일본 본토로 출장을 나가 직접 500~600명의 직원을 채용했다는 편지가 있기 때문에 그 당시 조선기계제작소 직원 수는 적어도 1,500~1,600명 정도였을 것이다. 그 후 잠수함 건조를 생각하면 종전 시에는 3,000명 규모의 대기업이었다고 생각된다.³

    1944년(昭和 19年)부터 1945년(昭和 20年)까지 인천중학교 재학생이 근로보국대로 동원되어 조선기계제작소에서 일하였다.

    출처: 요시하라 이사무(吉原 勇) 著 ‘仁川の 七十年’ 2018.4.17.

    [필자 소개]

    요시하라 이사무(吉原 勇)

    1938 년 경기도 출생. 마이니치 신문 경제부 기자, 편집 위원, 下野新聞社 이사, 作新学院大学 강사를 역임했다. 저서로는 「특명 전근」(문예 춘추사) 「내린 일장기」(신쵸 오샤) 등.

    2018년 5월 19일 인천을 방문한 요시하라 이사무씨로부터 번역 게재 허락을 받았음을 밝힙니다. 또한 인천대학교 교육대학원 일본어 교육전공 이태영선생님의 도움을 받아 번역하였음을 밝힙니다.

    ³2006년 10월 강화군 불은면 불은면사무소 뒤편에서 만난 심**(당시 82세)는 1942년부터 조선기계제작소 기술직 직원으로 입사하였다고 한다. 경성공업전문학교를 다니다가 학비지원을 해 주던 백부의 사망으로 인해 중퇴를 하였다고 한다. 이를 안타깝게 생각한 와다나베 교수가 조선기계제작소를 소개해서 취업을 했다고 한다. 공장 생산직원으로 일하는 게 아깝다고 하면서 노무과 직원으로 옮겼다고 한다. 그리고 해방 직후까지 조선기계제작소 노무관리 사원으로 일하였다고 하였다. 해방 직전까지 제 1, 2 공장으로 나뉘어 있었다고 한다. 제 1공장에서는 1단계 작업으로 조선인 노동자와 동원된 근로보국대원들이 단순 부품을 만들었다고 한다. 분업생산체제로 단순 부품만 만들도록 하였다고 한다. 인원은 1,500명 정도였다고 한다. 2단계 작업은 조선인, 일본인 기술직 공원들이 1단계 부품으로 중간 조립을 하였다고 한다. 2단계에서도 최종 조립단계에서 어떤 제품이 생산되는지는 몰랐다고 한다. 인원은 1000명 정도였다고 한다. 제 2공장에서 최종 조립을 하였는데 극비로 500명의 일본인 전문직 공원과 소수의 경성공업전문학교 출신 조선인 사원만 일을 하였다고 한다. 그래서 해방 직전 조선기계제작소 직원은 3,000명 정도였다고 말한 바 있다.

    손경옥 기자 press@incheonnews.com

  • #26

    ハナ (土曜日, 13 1月 2018 21:54)

    木本寿直様

    華厳寺には懐かしい思いでがあるのですね。
    階段は本当に急で、子供を抱っこしながら、転ばないように転ばないようにと思いながら下りました。
    お話を聞いてからもう一度見ると、今までとは違った景色が見えますね。
    住宅地の方も歩いてみようと思います。

  • #25

    管理人 (木曜日, 11 1月 2018 22:34)

    木本寿直様
    華厳寺の思い出の書き込みありがとうございます。
    当時の仁川を知らないわたしは皆さまからのお話を聞き、街の様子や暮らしぶりなどを想像しております。昔の写真からも当時の様子がわかりますが、やはりそこで暮らした皆さまのお話の方が想像をさらに膨らませてくれます。頭の中にボヤっとしていたのものが、お話を聞くことによって徐々に鮮明になってくるようです。ありがとうございました。今年もよろしくお願いいたします。

  • #24

    木本寿直 (木曜日, 11 1月 2018 12:21)

    仁川だよりにあるハナさんの記事「華厳寺」について。私は1945年10月まで仁川に住んでいました。当時は6歳でした。家は華厳寺の真下にありました。子供たちにとっては華厳寺はよい遊び場でした。写真石灯ろうのそばの塀の向こう側には今は建物がありますが、当時は何も無くて、海の方まで見通せました。なだらかな坂道の右手に石垣がある写真がその塀の外側をよく表しています。その塀から首を出して下に向かって大声で叫ぶと、家まで届きました。また寺の下の大きい通りから寺に通じる階段がとても急で、特に下る時にはとても怖い思いをしたことを思い出します。
    華厳寺から山手の住宅地を仁川新興小学校(私の母校)の方に向かって歩くと、今も日本家屋が沢山残っていると思います。住人は韓国人です。
    ハナさんの華厳寺の記事と写真を見て懐かしく思いました。

  • #23

    管理人 (火曜日, 17 10月 2017 22:31)

    JS 様
    Thank you for coming my HP. If you have materials, I want to look. when you have a time, pleace visited my HP again! Nice to meet you.

  • #22

    JS (火曜日, 03 10月 2017 13:40)

    I appreciate about precious and historical materials. My grand father's home was Hamacho 32(Sa-dong 23) Toumoarigatougozaimashita.

  • #21

    管理人 (水曜日, 30 8月 2017 21:31)

    ハナ様
    掲示板への書き込みありがとうございます。
    東仁川の近くにお住まいとのこと。色々とそちらの様子も教えていただければ、うれしいです。
    「問い合わせ」のところから連絡していただけると、わたしの方からメールに返信もできます。
    よろしくお願いいたします。

  • #20

    ハナ (火曜日, 29 8月 2017 23:07)

    管理人様初めまして
    今、東仁川の近くに住んでいる日本人です。
    仁川に残る日本家屋の事などを調べていくうちにこのサイトに来ました。
    当時、皆さんがどの様な気持ちで暮らし、日本に帰っていったのかを考えると、切ないような、不思議な気持ちになります。
    様々な思いが残る仁川、深く知ると、見える景色も違ってきますね。
    ステキなサイトに出会えて嬉しかったです

  • #19

    木本寿直 (水曜日, 22 3月 2017 18:41)

    「お知らせ」の中にある ‛1947年仁川の航空写真’ は大変珍しい写真だと思います。住んでいた家の周りの様子や子供の頃遊んだ所の移り変わり、通っていた旭国民学校の周りの様子や西公園(現自由公園)の移り変わりの様子等の年を追っての場所の変化がよくわかり、大変面白く航空写真を見ました。また、おいおい仁川のあちらこちらの移り変わりを見ていきたいと思います。
     よくこんなwebサイト見つけたものだと、感心しています。

  • #18

    管理人 (金曜日, 17 2月 2017 08:57)

    木本寿直様
    掲示板への書き込みありがとうございます。今年も内容があるホームページを目指していきます。よろしくお願いいたします。

  • #17

    木本寿直 (木曜日, 16 2月 2017 18:26)

    吉原勇氏の「仁川の70年」の記述には感銘を受けます。このホームページの「当時の写真」に私が旭国民学校の写真を載せました。その玄関前の左側にある大きな木の前に砲弾が3個あります。この砲弾が日露戦争時のロシア艦船の物だということは分かっていましたが、それ以上のことは分かっていませんでした。
     「仁川の70年⑥」の仁川沖海戦(9) にその砲弾のことに触れた記述がありました。それによると、この砲弾はロシア艦船「ワリヤーグ」の砲弾であることが分かりました。「ワリヤーグ」についてはそこに詳しく述べられているので、この砲弾の由来がよく分かりました。吉原氏のおかげで私の長年の疑問がやっと解決しました。

  • #16

    管理人 (土曜日, 26 11月 2016 12:33)

    隠塚 明 様
    掲示板に書き込みしていただいた憲兵隊の駐屯地のことで、わたしも問い合わせをしてみましたが、名称はわかりませんでした。
    何かわかれば連絡させていただきます。

  • #15

    隠塚 明 (木曜日, 06 10月 2016 20:47)

    穴門の手前(仁川港から上ってゆくと)の左手に憲兵隊の駐屯地(?)が有りました。正式の名称は何といったのでしょうか。えそぇ

  • #14

    管理人 (土曜日, 09 7月 2016 18:21)

    4月9日に吉原勇様がお書き込みになった文章の中に訂正箇所があったと、ご本人様から連絡をいただきましたので、管理人の方でその部分を訂正して再度投稿いたしました。
    吉原 勇 (土曜日, 09 4月 2016 08:30)
    昨日、終戦時仁川中学3年生だった方々の会合に出席させていただきました。昭和40年ごろから年4回のペースで開いておられるそうです。出席されていたのは和気三郎さん、汐月弘明さん、武本昌三さん、中山史郎さん、藤崎弘さん、それに仁川高女2年生だった川名(旧姓小神野)慶子さんでした。昭和5年、6年のお生まれですが皆さん大変お元気で昔の話をいろいろ伺いました。

  • #13

    管理人 (金曜日, 08 7月 2016 09:38)

    最初のページで紹介しましたように、仁川にお住まいだった方のご家族から多くの同窓会誌、同窓会報の寄贈がありました。内容は個人的なものが多いため、このHPでは公開していませんが、お父様やお祖父様が書かれた文章を読んで見たいと思われる方は、管理人までご連絡ください。

  • #12

    管理人 (水曜日, 20 4月 2016 10:32)

    最初のページにある絵葉書の写真、クリックすると少し大きくなるようにしました。

  • #11

    吉原勇 (日曜日, 06 3月 2016 18:56)

    地図といえば、私は毎日新聞大阪本社が大正2年から5年にかけて読者サービスとして発行した全国分県地図を40数枚もっています。このうち朝鮮半島は4分割されており、1枚が新聞紙2ページの大きさです。今となっては貴重な資料だと思っています。北朝鮮のテポドン発射基地などもすぐにわかります。

  • #10

    管理人 (日曜日, 06 3月 2016 12:48)

    仁川とは関係ないですが、戦前の群山日本人街の地図を「資料」のところにアップしております。わたしが以前、全羅北道群山市に住んでいたころ、日本人街を調査・研究している方にお願いし、いただいたものです。いただいてから10年以上経っていますので、見づらくなっている箇所もあります。

  • #9

    吉原 勇 (火曜日, 01 3月 2016 19:09)

    #の2と3に絡む話です。「仁川の70年」の連載のため仁川府史を呼んでいたところ、明治37年に宮町、寺町の陸海軍墓地を栗木町に移したという記事が載っていました。イザベラ・バードの「朝鮮紀行」の写真はやはり旭町にあった墓地でした。地形的にそうではないか、と思った私のカンはあたったようです。

  • #8

    管理人 (金曜日, 26 2月 2016 14:17)

    『降ろされた日の丸』の著者である吉原勇さんが「仁川の70年」という題でジンセンと呼ばれていた時代を執筆してくださいます。連載していきますので、楽しみにお待ちください。吉原様ありがとうございます。

  • #7

    管理人 (金曜日, 22 1月 2016 18:53)

    ネットで朝鮮機械製作所のことを調べていて、あるブログに行きつき、内容を見て驚きました。その方がこのHPを見てくれていたのです。詳しくはこのHPの「資料・書籍など」のところに書きました。うれしい出来事でした。

  • #6

    仁川を想う会 (土曜日, 02 1月 2016 18:41)

    明けましておめでとうございます。

    昨年このHPを立ち上げて、まだあまり時間は経っていませんが、早々に書き込みをしていただいた方々、ご覧になっていただいた方々ありがとうございました。

    今年もどうぞよろしくお願いいたします。

  • #5

    木本寿直 (金曜日, 11 12月 2015 11:44)

    多くの方に仁川について関心を持ってもらうために、仁川の地図を見ていただきたいです。韓国地図は殆んどがハングル表記ですが、分かり易い日本語表記の地図があります。「コネスト韓国地図」です。コネスト 仁川地図 と入力して検索すると、仁川地図をはじめ街情報がいろいろと出てきます。旅行前の情報集めにも役立つことでしょう。

  • #4

    吉原 勇 (木曜日, 10 12月 2015 21:24)

    木本様、有り難うございました。仁川商業の近くの丘に実際に在ったのですね。旭町でないと知り安心しました。

  • #3

    木本寿直 (木曜日, 10 12月 2015 11:24)

    終戦の時、私は仁川に住んでいて旭国民学校の1年生でした。兄がいて、仁川商業の3年生でした。兄は吉原勇氏が言う日本兵の墓地のことはよく知っていると言っています。以下に兄の話を載せます。
    「陸軍墓地があったのを知っています。広い丘の上から中腹にかけて墓地があり、管理人がいて、いつもきれいに整備されていました。日清、日露戦争のどちらかのものとは聞いていましたが、改めて、その由来を聞いたことはなく、このメール(私が兄に問い合わせたメール)で日清戦争の時のものと知りました。仁川商業に通学の時、時々近道した道筋にあり、時にはそこで遊んだ記憶があります。場所は仁川商業(現、仁川情報産業高校)の校庭から仁川駅の方角に向って左側の丘に見えていました。しかし、戦後、仁川商業を尋ね校庭から、その丘をみましたが、家が立ち並び、墓地が宅地に整地されたようです。町の名前は戦前、戦後とも不明です。旭町ではありません。旭町にはお寺が沢山ありましたけどね。」と言っております。
    仁川地図を見ると、そこは栗木洞とあり、昔もそうだったと思います。その丘は現在頂上には栗木児童公園があります。ふもとの仁川情報産業高校側は住宅地になっていますが、そこが墓地があった所でしょうね。
    私の仁川の知り合いが栗木洞に住んでいたのですが、そこには昔墓があったと言っていたのを思い出しました。
    仁川地図のリンクを載せておきます。
    http://map.konest.com/dloc/279265/541765/12?ln=1&map=1

  • #2

    吉原 勇 (火曜日, 08 12月 2015 08:32)

    イギリスの女性探検家イザベラ・バードは日清戦争の前後朝鮮を訪れ、名著「朝鮮紀行」を残しています。その中で仁川についての記述もかなりあり、写真も2、3枚あります。その1枚は「日清戦争で戦死した日本兵の墓」でかなり広い墓地です。私は仁川でそのようなものを見たたことがありません。どこにあったのか、どなたか教えていただけませんか。仁川府史を読むと、私の住んでいた旭町(寺町)は元は墓だったと書いてあります。仁川神社があった丘から旭町を撮ると、地形的にはよく似ています。旭町は日本兵の墓の上に作られたのかな、と想像しているところです。

  • #1

    吉原 勇 (火曜日, 08 12月 2015 08:27)

    素晴らしいホームページを立ち上げてくださり、有り難うございます。私の著書「降ろされた日の丸」も紹介され、懐かしい風景の写真もありました。またリンク先の鈴木さん、武本さんの書かれたものを読むと、正嶋さん、水越さんなど思い出に残る方々のお名前も出てきて感慨ひとしおです。多くの方がこのHPを利用して交流が始まるといいですね。
    ---