25年前の仁川初訪問
古い新聞記事が出てきました。記事は翌年の1月になっていますが、1998年11月に私が初めて韓国、そして仁川を訪問した時のものです。この記事には苦い思い出があります。
仁川は仁川広域市という名称ですが、文中には仁川朝鮮市と書かれています。新聞が出た日には朝から私の職場に電話がかかってきました。お叱りの電話が多かったのですが、中に仁川出身の引揚者もいたのです。ただ、その時はお叱り電話の応対で疲れていたこともあり、その方の連絡先も聞かず、素っ気ない形で電話を切ってしまいました。今でもその方がどなただったのか、気になっています。本当に申し訳ないことをしてしまいました。
仁川に残されたまるゆ
戦時中、仁川でも建造された陸軍の三式潜航輸送艇は、終戦後も仁川に残され、赤く錆びた状態になっていたという。一体どこに放置されていたのだろうかと、今でも気になっている。
新しい写真が発表されたことで、内容を加筆しております。
まるゆ仁川派遣隊
昭和19年、愛媛県にあった陸軍潜水輸送教育隊から仁川に陸軍潜水艦乗員が派遣されました。この派遣隊や派遣隊の宿舎となった朝鮮機械製作所に隣接する暁寮については、わからないことが多く、今も調査中です。
小倉駅前亀屋旅館
11月に福岡を旅行したとき、立ち寄った北九州市小倉での話です。祖父が日本内地の出張から仁川に帰る際に宿泊した小倉からの手紙が残っていました。その場所を訪ねてみました。
安養プールを訪ねてみた
管理人が今住んでいる家に残っている古い写真があり、その写真が撮られた場所に以前から行きたいと思っていました。この前の訪韓でやっとその場所を歩き、自分の目で見ることができました。
祖父の仁川生活始まりの場所
9月29日から韓国に行ってきました。3泊する予定でしたが、予約していた飛行機が欠航するということで、2泊になりました。結果、仁川には3時間半しかいられませんでしたが、祖父が仁川生活を始めた場所を確認することができました。文書はPDFファイルにしてあります。
自由公園近くにある朝鮮機械製作所社宅
2018年に訪問した時、李成珍先生から東洋紡績の社宅だとお話を聞きましたが、その後、李先生の調査で朝鮮機械製作所の社宅だったということ判明したそうです。